稗田集落
1、奈良県大和郡山市 2、歴史 南北朝から室町期にかけての大和では、大和永享の乱(1429〜1439)や応仁の乱などの騒乱により社会不安が増大、平野部では自衛のために多くの環濠集落が形成された。大和郡山市稗田に残る「稗田集落」は、現在も環濠を留める環濠集落として知られている。 稗田集落の詳細な創築時期は不明であるが、文安元年(1444)の『経覚私要抄』に初出することから、15c中ごろには城砦として機能していたと考えられている。規模は、東西約260m、南北約260m。 |
1、南側
南西部(稗田堀橋から、南側中ほどの凹部)には張り出した部分がみられ、「馬出し」として機能していたと考えられている。また、 南東部に位置する、賣太神社の境内が、主郭だった可能性も指摘されている(『日本城郭体系』)。コンクリートによる護岸工事がなされていて、幅は6〜9m。。 | ||||
[南西隅]→北 |
[南西隅]→東 |
凸→東 |
凸→北 |
西→凹 |
凹→西 |
凹→南 |
凹→東 |
北→外側 |
賣太神社 |
2、東側
3、北側
北西部は、鬼門避けのため、「七曲り」と呼ばれる、折れを多用した構造を有する。北入口から北西隅にかけては、緩やかなカーブを描いている。幅は6〜9m。 | |||
凹1北・橋→東 |
凹1北・橋→北西 |
同左 |
→北 |
集落・北入口 |
北入口→東 |
北入口→西 |
→東 |
4、西側
〈一口メモ〉 近世城郭の総構えへと続く、戦国期の環濠集落。近年、整備が進んで旧来の姿を失ったのではないかとの指摘もあるが、水を満々と湛えた濠に囲まれた稗田集落は、城郭の囲郭の前段階の様子を知るには、まさに「教科書的存在」といえよう。 水濠に沿って歩いていると、城下町の総濠と雰囲気はほとんど変わらない。集落を囲む土塁もなく、また濠の内外で高さの違いもないように感じられた。周辺は、多くの川の交錯する水郷地帯でもあり、このような地理的環境と、歴史的環境(前述)のなか、賣太神社を中心に環濠集落が形成されたことが想像できる。 |