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田丸城

1、所在地 三重県渡会郡玉城町
2、歴史
 建武3年(1336)、北畠親房が南朝と拠点として、田丸山に砦を築く。永禄12年(1569)、織田信長の支配下となり、翌年破却される。 天正3年(1575)、織田信雄が大河内城から田丸に移転、田丸城を築城。その際、外城田川(ときだがわ)の流れを変更し、城下を囲む外堀とした。
 慶長5年(1600)、稲葉道通が5万石で入城。元和元年(1615)、藤堂高虎の所領となり代官が置かれた。元和5年(1619)、紀州藩領となり、紀州徳川家の付家老、久野宗成が1万石で入城、維新まで存続した。
3、縄張り
 南北に連なる尾根上に3つの郭が配置され、間には堀切が設けられている。三の丸下の二之門付近に内堀が、そして内郭を外堀が取り囲んでいる。内郭の南には、堀の役割を果たす外城田川が流れている。


 1、内郭の堀切 
 2、内堀
 3、外堀
 4、外城田川
 〈一口メモ〉

1、内郭の堀切

 北の丸、本丸、二の丸の間に堀切が、さらに、北の丸・北側、そしてその北側にも大掛かりな堀切がみられる

北の丸・北側〜外堀

北の丸・北側、西→

同左、東→

二の丸・北

2、内堀

 外堀と二之門の間に、内堀が設けられていた。幅は10m。
二之門→外 外→二之門 土橋→南 南→二之門 外→内

3、外堀
 (1)大手門(東側)
  1)外側から

 内郭を取り囲む外堀のなかでも、石垣が使用されているのは、この大手門だけである。大手門の礎石と広大な水堀は、田丸城の見所のひとつ。幅は20〜25m。

南→大手橋

大手橋

  2)内側から


大手門→南

大手門→大手橋

大手門→北

北→大手橋

 (2)北東隅
  1)外側から

 代官屋敷のあった北東隅は、堀幅が一番深く、40〜50mに及ぶ。

北東隅→南

同左

北東隅→西

玉城橋→西

西→玉城橋

  2)内側から


北東隅→東(玉城橋)

北東隅→北

 (3)北側

 田丸山は、丘陵部の突端部に位置していることから、内郭の北側を西に進むにしたがって、次第に標高が高くなっていく。そのため、北東隅辺りでは、丘陵地を深く掘削して堀が造成されている。

代官所屋敷→北

田丸神社付近

北西隅→東

北西隅→南

南→北西隅

 (4)西側

 外城田川と接する、内郭の西側にも広大な堀が設けられていたが、鉄路の設置や埋め立てられて住宅地となっている。堀幅は狭くなってはいるものの、ほとんど途切れることなく残存している。民家の背後に、二の丸の石垣を望むことが出来る(左端の写真)。

 (5)搦手〜桜橋
  1)外側から

 鉄路をくぐると、再び水堀が続く。内側には平坦地が広がり、大砲蔵が置かれていた。現在は田丸保育園の敷地となっている。

大砲蔵付近

同左

南東隅→西

  2)内側から


搦手付近→東

桜橋→南

桜橋→北

4、外城田川

 内郭の南を外城田川が通る。幅は20〜25m。色白橋を経て、搦手へと通じる。
色白橋→西 南(外)→色白橋 色白橋→東

 〈一口メモ〉

 城郭ファンの間でもそれほど知られているとは言えない、
1万石の紀州藩の支城。しかし、田丸山の尾根に築かれた、本丸・二の丸・北の丸の高石垣といい、内郭を囲む水堀といい、1万石とは思えないほどの規模である。
 田丸城の外堀は、その一部しか残されていないとされてきたが、実際に外堀を一周してみると、鉄路が掛かる2地点以外は、途切れることなく、外堀が残存していることがわかった。堀ファンとしては、うれしい限りである。

 丘陵地の突端部に縄張りされたことから、東側には広大な水堀、北・西側は深く掘削した空堀が見られるなど、バライティーに富んだ堀を楽しむことができる。丘陵部に設けられた深い堀を見ていると、規模は違うものの、同じく丘陵の突端部に縄張りされている大和郡山城や躑躅崎館に似ているとの印象を持った。