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#05 竹中家陣屋訪問記 04/8/14 水口城を出たのが,昼の1時半。お城・城下町巡りや図書館での資料探しなどをしていると,いつものことながら夢中になってしまい,昼食をとるのが遅くなりました(最近,娘んたが,一緒に城に行きたがらんわけやわな〜)。途中で軽く食事,名神高速道路が渋滞との表示を見て,下を通って帰ることにしました。中山道に並行する国道8号線・21号線を通り,関ヶ原を過ぎてすぐ北に折れると,垂井町の岩手幼稚園・小学校がみえてきます。ここが,本日2つめの目的地,竹中家陣屋跡です。 竹中家は美濃不破郡岩手の豪族。竹中半平衛が豊臣秀吉の軍師として活躍したことで知られています。その半平衛の子,重門が関ヶ原の戦いの軍功により領地を安堵され,以後5千石の旗本として明治維新まで当地を治めました。美濃には大垣藩10万石を筆頭とした大名(1万石以上)が6家ありましたが(注),旗本(1万石未満,2千石以上)が18家あったことはあまり知られていません。その中でも竹中家は,「交代寄合衆」という特別な家格でした。 「交代寄合衆」という用語は,歴史ファンでない限りあまり聞きなれないと思いますが,参勤交代が許された3千石以上の無役の旗本のことをいい,全国でも35家を数えただけでした。中世以来の豪族,没落した旧守護大名,大名の分家などがみられましが,簡単に言うと大名になれなかった武将ということでしょうか。その35家のなかでも,石高や格式が高い20家が「交代寄合表御礼衆」とされていました。美濃ではこの竹中家だけです。 1万石から1万2千石の石高の大名や交代寄合衆は居城を構えることが許されず,陣屋を本拠としていました。陣屋というと,高山陣屋のように軍事的意味合いを持たない政庁を連想しますが,竹中家陣屋は別名「岩手城」と呼ばれるように,構えは城郭そのものです。現在は,岩手幼稚園の前に,櫓門と水堀(写真右),さらに櫓門の裏に石垣(写真右が残されています。竹中家陣屋は,半兵衛ゆかりの陣屋ということで,城郭ファンの間ではよく知られているようです。私の滞在中にも,和歌山ナンバーや名古屋ナンバーの車が数台到着,竹中陣屋のシンボルである櫓門の写真を撮っていかれました。 堀の南側には,竹中氏に関する資料を展示している菁莪(せいが)記念館があります。中に城郭の復原模型が展示されているとのことですが,残念なことに閉館中。見学は予約制とのことでした。今回は下調べのなしに急に思いついて訪れたので,城下図の縄張り図もなく,散策はできませんでした。次回はしっかり資料収集をしてから再訪問したいものです。
注) 大垣藩,加納藩,高須藩,郡上藩,岩村藩,苗木藩。 |
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♯03 岡山城訪問記 04/7/19 漆黒の城壁,安土城を模した不等辺五角形の天守台,初期望楼型の天守。豊織期天守閣の典型である岡山城天守閣は,豊臣家五大老のひとり,55万4千石の大大名・宇喜田秀家が創建したことで知られています。関ヶ原の戦いで敗れた秀家が八丈島に流された後,小早川秀秋を経て池田家32万石の居城となりました。天守閣は,維新後も保存されていましたが,惜しくも戦災で焼失(注)。現在みられる天守閣は,戦後復原されたもので,往時の威風を今に伝えてくれます。 昨日は,お城散策に時間が取られて,家内が好きな庭園(栗林公園)をじっくり見学する余裕がありませんでしたので,今日はまず後楽園へ。日本三名園のひとつである後楽園を背景に天守閣(写真左)を眺めながら,園内をくまなく散策しました。その後,月見橋のたもとで昼食。旭川の対岸のどこからでも天守閣が眺望でき,贅沢な気分に浸れました。岡山城に限らず,松本城・熊本城など,黒壁の巨大な天守閣は気品があり,白壁の名古屋城天守閣を見慣れている私には,とても新鮮に映りました。 岡山城は,小学校6年生のとき訪問しているので,今回は2回目になります。前回は天守閣に登っただけでしたが,今回は内堀の外側を一周,中段・上段を一周してから天守閣へ登りました。本丸(内堀内)以外にも見所が多く点在しています。二の丸(宇喜田直家時代の本丸)石垣(写真右)をはじめ,石山門の石垣,対面所櫓の石垣などが,窮屈そうな状態で市街地の中に残っていました。 外側の内堀跡や旧山陽道をチェックしたのち,市電でJR岡山駅へ。現地で仕入れたお城・方言関係の本をかばんいっぱい詰め込み,帰途に付きました。 32年ぶりの中国・四国お城巡りの旅。丸亀城や高松城のボランティア・ガイドさんたちに,「ご主人のお相手も大変ですね」と同情されつつも(奥さんを連れたお城ファンの方が,少なくないらしい),3日間,私の道楽に付き合ってくれた家内に感謝です(来年の予定はもう決まってます,よろしく)。
注) 明治以降も保存されていたけれど,戦災で消失した天守閣には次のものがあります。消失した年はすべて昭和20年(1945)です。なお,水戸城は天守代用の御三階です。
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♯02 丸亀城訪問記 04/7/18 日本には現存する天守閣が12城あります(注)。火災や地震,戊辰戦争,廃城令,戦災をくぐり抜けてきた,貴重な文化遺産です。そのような天守閣の中でも一番小さい天守閣として知られているのが,京極家6万石の居城であった,ここ,丸亀城(写真左)です。小さな天守閣しか建設できなかったのは,外様の小藩だったからと言われています。 丸亀城といえば,残存天守閣とともに高石垣が有名です。内堀から天守閣にかけて四段に積み重ねられた城壁は累計60mに達し,高さとしては日本一とされています。また,標高66mの本丸からの眺めは,絶景です。前には瀬戸内海に浮かぶ島々や瀬戸大橋,後ろには丸亀平野が開け,この地方特有の多くの溜め池,讃岐富士や金毘羅さんが展望できます。 見所が多い城郭ですが,私のお勧めポイントは内堀です。ガイドブックや城郭関係サイトではあまり紹介されていないようですが,これだけの広大な城郭を取り囲む水堀が完全な形で保存されているのを,私はあまりみたことがありません。貴重な遺構といえましょう。大手の石垣の内堀もすばらしいですが,曲がりくねった土塁の内堀(写真右)が特にお勧めです。 ちなみに,外堀は戦後のどさくさに住民が勝手に埋め立て,住居を建ててしまったそうです。行政が本腰を入れて保存に取り掛かろうとした10年後には,外堀はもうほとんど残っていなかったようです。当時は文化財保護どころではなかったのでしょうが,今となっては残念なことです(どこの城郭遺跡にかって,ある話やな〜,ふんとに)。 想い出に残る丸亀城訪問でしたが,これもボランティア・ガイドさんのおかげと感謝しています。大手門で数人のガイドさんたちが待機されていましたが,私たちを案内していただいたのは70歳代の男性のかたでした。「ボランティア仲間には郷土研究をしていて,城郭に詳しい人もいる」などと謙遜されてましたが,「小学校の時はこの(三の丸東側)石垣を登った」などのご自身の思い出話や旧城下町の変遷,ガイドブックに記載されていない裏話などを,讃岐のことば(方言に関心がある私としては,方言を聞く貴重な体験でした)でていねいに解説していただきました。私があまりに石垣に夢中だったためか,一年に一度しか来ないとおっしゃっる帯曲輪の方まで案内していただき,予定の倍の2時間が過ぎていました。 暑い中,長時間ありがとうございました。
注)弘前城,丸岡城,松本城,犬山城,彦根城,姫路城,松江城,備中松山城,丸亀城,伊予松山城,宇和島城,高知城。 |
♯01 高松城訪問記 04/7/18 毎年,夏になるとお城巡りを兼ねて,家族旅行に出掛けます(家族旅行を兼ねて,お城巡りの旅に出ます)。今年は,娘たちはクラブ活動で忙しいとのことで留守番,家内と二人だけの旅となりました。初日は家内の希望で倉敷・大原美術館,二日目はレンタカーで瀬戸大橋を渡って丸亀城・高松城・栗林公園,三日目はJRで岡山に戻り,岡山城・後楽園という日程。今回の旅の一番の目的地は高松城でした。 高松は,32年ぶり,2度目の訪問になります。小学校6年生の夏休み,祖父母が愛媛県大洲市に住む義姉に会いに行くというので,兄と私もお供をすることになりました。当時,お城ファンになりたての私にとっては,西国のお城巡りの絶好の機会,高松城も訪問希望地のひとつでした。しかし,栗林公園と金毘羅さんに押されて私の希望は却下。以来30余年,行けなかった高松城のことがずっと心に引っ掛かっていました(香川県縁の人に会うと,いつもこの話をしてます)。 念願の高松城。第一印象は,「市街中心地に,よーこんだけの遺構が残っとるもんやわ」というものでした。明治以降,城郭の内部に市街地が形成された都市(大垣や尼崎など)では,堀や石垣などの遺構がほとんど破壊されていることを考えると,高松城の保存状態がこれほどまでに良好なのは驚きです。その大垣出身の私にとっては,関心するとともに羨ましくもありました。都市化の波にも耐え,このように保存されてきたのは,水戸徳川家の流れを汲む親藩(松平家12万石)であったことへの誇りや高松城に対する愛着が,高松の人たちにあったからなのでしょう。 高松市では,現在,天守閣の再建や琴電の駅・線路を撤去しての内堀の再生を計画中,2012年に完成予定とのことです。来年にはもう天守台の発掘・解体修理が開始されると聞きました。今回,高松のシンボルである玉藻廟と天守台(写真左),内堀・中堀を走る琴電(写真右)を見ておくことができたのは幸運でした。天守閣が再建された折には,また高松城を訪問したいものです。 それにしても,山陽新幹線も瀬戸大橋もなかった32年前に比べ,高松の近くなったこと。名古屋から「のぞみ」と「マリンライナー」で2時間40分,隔世の感がします(年を取ったってことかしゃん)。
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