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#24 武節城訪問記 07/01/24 

 「万博・城郭遺跡の旅・第4弾」は、北三河の旅。今回の目的地は、稲武へ移転したの万博遺跡と、予てから訪問したいと思っていた松平屋敷なのですが、その途中に2つの城郭も訪れるという、実りのある旅(?)となりました。

 朝6時に自宅を出発、通勤ラッシュで渋滞する豊田市街を抜け、飯田街道(国道153)を東進。足助へは数回訪れたことがあるのですが、それより先は私にとって初めて訪れる土地となります。道中、街道沿いの茅葺き屋根や、谷間を通る旧街道を眺めたりと、きままな旅も楽しいものです。

 万博遺跡の見学後、国道沿いの駅の道「どんぐりの里いなぶ」で休憩。五平餅をほお張りながら、観光案内パンフをながめていると、近くに城郭遺跡があることを発見。城郭の名は「武節城」、道の駅の背後(写真左)、今しがた通ってきた国道のトンネルの上(写真右)がその城跡だったのです。

道の駅「どんぐりの里いなぶ」 国道153号線・城山トンネル

 
 節城は、信濃と美濃の国境に位置し、三河の最前線基地として重要な役割を果たしたといいます。16世紀初頭に菅沼定信により築城されて以降、信州の下条氏、甲斐の武田氏、三河の奥平氏と目まぐるしく領主が交代し、1590年の家康の関東移封とともに廃城になったとされています。

 城郭は、名倉川に臨む断崖上にあり、5つの曲輪と周辺に10数の小さな曲輪が配置され、郡内では有数の平山城といわれています(左上図)。現在でも三の丸、二の丸、本丸が階段状に残っているだけでなく、本丸の後ろの物見台や櫓跡、多数の曲輪、空濠などがよく保存されています。

 まずは南側の濠から城郭に入り、いくつかの外曲輪を確認しながら二の丸、本丸へと上がっていきました。濠や外曲輪へ通じる道は狭く急ですが、多くの案内板がみられ下草も刈られていて整備が行き届いているようです。本丸にたどり着くとそこは駐車場、ここまで車でも上がってこられるんですね。でも、各曲輪をじっくりと歩いて見て回らないと、この城郭の魅力は半分も分からないでしょう。

 本丸背後の櫓跡にある神社を参拝後、今度は北側の濠を通って下りていきました。途中にも、いくつかの曲輪をみることができます。斜め上や横から眺めると、その形状を観察することができます(写真下)。畑になったり、共同墓地になったり、公園になったりと、曲輪跡地の用途は様々ですが、大小の曲輪の保存状態が極めて良好。戦国期の平山城の縄張りを知るには、絶好の教材。お勧めの城郭遺跡です。

 
武節城(左が北) 櫓跡
横から眺めた外曲輪 上から眺めた外曲輪


 思いがけない武節城訪問。稲武の万博遺跡へ来る機会がなければ、来ることもなかったかもしれません。ほんの40分ほどの城郭散策でしたが、大満足でした。稲武を後に、次の目的地である松平へと向かいました。




#23 苗木城訪問記 06/11/26 

 年、この気候のいい時期になると、家内と二人で中仙道歩きの旅に出ています。今回も準備万端、あとは出発するだけだったのが天候に恵まれず、やむなく中止。代わりと行ってはなんですが、「山を歩きたい」という家内の声を尊重して(?)、予てから私が訪問したかった信州の万博遺跡と中津川・苗木城へ出かけることに決定。長浜、岡崎に続く、「万博・城郭遺跡の旅・第三弾、木曽路編」と相成りました。

 訪れた城郭遺跡は中津川の苗木城。国道19号を戻り、中津川市街から木曽川を渡ると「苗木遠山資料館」、そして苗木城跡があります。

 苗木城は遠山氏により南北朝時代に築城され、戦国期に豊臣氏家臣の森氏に攻め落とされるも、関が原以降、森氏より奪取。以降、苗木藩は国替えもなく明治維新まで十二代続くことになります。ちなみに、分割統治されていた東濃には、この苗木藩(一万石)の他、大給松平家の岩村藩(二万石)が配置されているのみでした。


 苗木城の縄張りを見ると、木曽川に突出した急峻な山に築かれたという点では犬山城、山頂の本丸まで螺旋階段を登るように通路が設けられているという点では丸亀城と同様です。しかし、この苗木城、他の近世城郭のイメージとはかなりの隔たりのある様相を呈しています。

 資料館の展示スペースに入るとまず目に飛び込んでくるのが、城郭模型。その特徴のひとつが、山の地肌に露出した巨石。もうひとつが、「瓦葺・入母屋造の屋根、白壁」という近世城郭のイメージとはかけ離れた、「板葺・切妻造の屋根、赤い土壁」というおどおどろしい、まるで戦国期の砦のような外観。これらの建築物は明治初期まで残されていたとのことですが、以後、破却されています。復元された門や矢倉など、見てみたいものです。


 さて、資料館の裏から本丸に続く旧郭内を散策することにしました。ところどころに露出した巨石に驚きながら、地図を片手に進みます。このように露出した自然の巨石を巧みに取り入れながら築いた石垣群は初見、丸亀城や吉田城の石垣群とはまた違った感動があります。カメラがないのはただただ残念、家内の携帯を借用して2枚撮影してみました。左が苗木城の紹介には必ず登場する大矢倉跡です。

 紅葉を楽しみながら山頂にある天守台に到着。標高426メートルの山頂からの眺望は絶景(写真右)。手前は木曽川、対岸には中津川市街地、さらには恵那山が望めます。今まで訪れた山城の中では、犬山城や丸亀城と並びすばらしいものでした。「山を歩きたい(城は行きたくないけれど)」といっていた家内も、ここからの眺めに満足そう。
 
大矢倉跡 天守台からの眺望


 カメラが故障して撮影できなかったのは返す返すも残念でしたが、きっと「また来い」ということでしょう。次回は1日かけて散策、今日行けなかった旧城下町へも足を運んでみたいと思います。




#22 長浜城訪問記 06/10/29 

 北(滋賀県北部)史跡巡りの旅へ行ってきました。目的地のひとつは、湖北に移設された”万博遺跡”「エジプト館」、もうひとつが長浜城(写真)です。こちらは9年ぶり、3回目の訪問となります。

模擬天守(南西より望む) 模擬天守(西より望む)


 浜城といえば「秀吉出世城」として有名。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が旧浅井領の湖北を受領、琵琶湖交通・北国街道の要衝である今浜(長浜)に築城、1575年に入城しています。

 本能寺の変の後、長浜に入った柴田氏も滅亡、その次に長浜城主になったのが、そう、今年の大河ドラマの主人公である山内一豊です。この辺りの経過は、戦国期を扱った大河ドラマでは必ず登場する場面ですので、もう説明は不要ですね(「本能寺の変」や「賤ケ岳の戦い」の場面は、一体何度見たことでしょう?)。

 一豊も5年で掛川城へ移り、その後は内藤氏へ経て、大阪の陣(1615)の後は彦根藩領に組みこまれ、廃城となっています。つまり、長浜城はわずか40年間しか存在していなかったんですね。

 当時の資料も少なく、天守閣の様子や城下の縄張りなど、不明な点も多いとされていますが、江戸期の絵図や明治期の地籍図から当時の城下町の様子が復元されています(下図)。天守閣は砂州の上が築かれ、さらに三重の堀で囲まれていたと推定されています。秀吉が建設した「城と城下一体」の城下町は、近世城下町のモデルとなり、その後の城下町建設のモデルになったことはよく知られています。

秀吉時代の長浜城下想像図(長浜城歴史博物館監修)、案内図より


 て、現在の城の様子をちょっと見ていくことにしましょう。長浜のシンボルとなっている「長浜城天守閣」は、望楼型の他の城をモデルに、1983年に市民の寄付により建造された模擬天守閣です。長浜城天守閣は、一豊入城のときにはもうなかったとの説もあり、どうも不明な点が多いようです。

 その模擬天守からは、琵琶湖や伊吹山などが一望できます(写真左下)。北西方向を見渡すと手前にこんもりとした小高い丘が目に入ります。この地点に天守閣があったとされています。現在は「国守神社」が鎮座し、「長浜城天守閣跡」と記された石碑と秀吉像(写真右下)が置かれています。


模擬天守より北西方向を望む 「天守閣」跡


 次に北の方向へ視点を移してみます(写真左下)。上の城下図では左側に当たります。天守閣の北側には、琵琶湖の水を引き入れた、舟入を兼ねた広大な内堀が広がっていましたが、その後埋め立てられ、現在はご覧のように住宅地となっています。ところが、古地図と現在図の重ね図をみていると、三重の堀の跡に、河川や道路が走っているのが確認できます。つまり、秀吉築城時の城下町の構造が現在まで継承されているわけです。

 もう一度、城下図をご覧下さい。内堀のまん中に「中島」が浮かんでいるのがお分かりかと思いますが(赤の矢印)、、これが写真左下の矢印の地点(右端)に当たります。行ってみると、そこは「湖北農業会館」の駐車場になっていました。写真右下の右側の樹木のある空き地です。

 くの城下町では、明治維新後の廃城令により、堀が埋め立てられたり土塁が破壊されたりして城下町の遺構が破壊されています。ましてや、それより350年前の一国一城令により破壊された城下町など、なおさらです。しかし、400年も前の城下町の構造が、現在の市街地の中にも残されているんですね。

模擬天守より北方向を望む 「前島」跡

  
 しぶりの城郭遺跡散策。最近は、万博サイト作成に集中するため、城郭散策も自粛中。といいながら、次回は伊勢の「万博&城郭」遺跡を巡る旅に行く予定です。


 〈参考文献〉
   『名城をゆく〜小谷城・長浜城』22、(小学館、2004年発行)
   『よみがえる日本の城〜安土城・彦根城』22、(学習研究社、2005年発行)
   『みーな〜一豊公と千代さま』86、(長浜みーな協会、2005発行)



#21 赤坂御茶屋屋敷訪問記・2  06/05/03

 のゴールデンウイーク、家族4人で大垣の実家へ行ってきました。このところ家内は仕事に、それぞれ大学・高校へ進学したばかりの娘たちは学校・クラブ活動に忙しいようで、家族揃って食卓を囲むこともめっきりと少なくなりました。ましてや家族4人揃っての外出など、本当久しぶりのことです。

 今日は天気もよく、午後からはぶらっとオチャヤブへ行ってきました(#6参照)。オチャヤブは、城郭遺跡としてだけでなく、ボタン園としてもよく知られています。毎年GWの時期になると、各地から多くの観光客訪れますし、ローカルニュースでも必ず紹介されています。今日も臨時の駐車場は満車状態、旧中仙道や途中には多くの誘導係の姿がみられました。というのも、初めて訪れる人には、大変わかりにくい場所にあるからなんですね。子供のころ、町内のあちこちで遊んでいると、毎年決まって、オチャヤブまでの道を聞かれたものです。今日もオチャヤブまでの道すがら、呼び止められてしまいました。

 ボタン園

 中仙道の赤坂宿に御茶屋屋敷が設けられた経緯は以前延べたとおりですが、今日はその後の経緯について簡単に紹介しておくことにしましょう。

 徳川幕府も3代将軍家光の時代になると幕藩体制は磐石となり、もう上洛する必要はなくなりました。それにしたがい、将軍上洛の宿舎だった御茶屋屋敷もわずか20年余りでその使命を終え、取り壊されることとなりました。それ以後、跡地は大垣藩預かりとなり、旧本丸内部は番人が置かれ畑として使用されていました。

 維新後、多くの城郭跡地が民間に払い下げられたのと同様、御茶屋屋敷跡地は赤坂の旧家・矢橋家の所有となりました。当主・宗太郎は、土塁や空堀に竹を植え、遺構の保護を生涯の仕事にしたといいます。戦後、新制中学を建設する際、矢橋家は西半分を中学校の建設用地として寄付、全国で唯一完全な状態で残存していた御茶屋屋敷跡も、不完全な形となっていました。ただ、当時を状況を知る私の母親によれば、財政困難であった赤坂町が用地の取得もままならないのを、矢橋家が見るに見かねて寄付をされたとのことです。

 そして、今のボタン園の基礎を作ったのがその子息・龍吉。残る東半分の敷地にボタンを植え、それが「ボタン園」として当地の名所となるまでになりました。今日もカメラを携えた多くの観光客で賑わいを見せていました(写真下)。ボタンもちょうど見ごろです。




 城郭の遺構

 観光客の話を聞くとはなしに聞いていると、ボタン園が将軍の宿舎(つまり、御茶屋屋敷)だったということをご存知の方は多くないようです。ボタン園の周囲には土塁が巡らされているのですが、その外側にはご覧のようなすばらしい空堀が残されています(写真左)。向こう側にみえるのは、中学校の敷地、運動クラブの部室です。ちなみに、私が所属していたサッカー部の部室もこの辺りにありました。南側では、さらに外堀跡もみられます。400年前の御茶屋屋敷創設時の二重の堀が残存しているのはこの南側だけです。

 東側には大手門の跡がみられます(写真右)。竹やぶの中の土塁は、その大手門の遺構です。土塁、空堀そして大手門跡など、多くのすばらしい遺構が残されているというのは、地元の人間としても城郭ファンとしても、うれしい限りです。 

南側の内堀 大手門跡


 現在は万博のサイト『万博を歩こう』の作成に夢中ですが、次には城郭遺跡のサイト『城郭を歩こう』を立ち上げようと準備中です。サイト開設の折には、この赤坂御茶屋屋敷の詳細な現況報告もお届けする予定です。

 〔参考文献〕
  清水春一(1978)『史跡赤坂お茶屋屋敷』(矢橋社内報「うみゆり」編集部)