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#20 名古屋城・本丸東南隅櫓の一般公開 06/04/08

 古屋市中心街からやや北に位置する名古屋城。この20年来、毎日とは言わないまでも2日に1回くらいは仕事でその前を通っています。車からは、官庁街南側の三の丸外堀、北側の二の丸外堀(写真左上)、外堀通り沿いの御園門の枡形門石垣(写真右上)、本町通沿いの東門(写真左下)、そして北に回ると水をたたえた外堀越しに清洲櫓(写真右下)などなど。天下の名城を眺め、その遺構を観察しながら仕事ができるなんて、城郭ファンとしては何と恵まれた環境でしょうか。幼い頃から眺めてきた大垣城と並び、名古屋城は私にとってとても身近な、そして思い入れのある城郭となっています。

二の丸外堀 三の丸外堀と御園門跡(後方は県立図書館)
東門跡(後方は県体育館) 外堀と清洲櫓


 古屋城は、堀や石垣などの遺構が明治維新直後とほぼ変らない状態で保存されています。維新後、二の丸御殿が取り壊され、濃尾地震で多聞櫓が崩壊していますが、天守閣や本丸御殿はその後も残存、国宝として多くの市民に愛されていました。しかし、61年前の名古屋空襲でアメリカ軍により破壊され、惜しくも焼失。返す返すも残念なことです。

 明治維新後の城郭破却、地震や空襲をくぐり抜け、現在まで残されている遺構があります。三つの城門、清洲櫓、そして本丸の西南隅櫓と東南隅櫓です。これらの櫓は重要文化財に指定され、通常は非公開とされています。清洲櫓は、名古屋デザイン博の際、一般公開され私も見学してきました。


 て、この清洲櫓と本丸東南隅櫓(写真下)の一般公開が、6日から9日まで行われるとの新聞記事を発見、今日の午後、仕事帰りにさっそく見学に行ってきました。東南隅櫓の内部を見学するのは初めてのことです。今日は桜が満開、土曜日ということもありかなりの賑わい、本丸表一の門をくぐり東南隅櫓にたどり着くと、階段には多くの方が行列をなして並んでいました。

 東南隅櫓は2層3階の大型櫓。櫓といってもさすが徳川の城、小規模の城郭の天守閣と比較しても引けをとるものではありません。内部にはいると、年月を感じさせる木の感覚(写真左下)、急な階段、やはり城郭の建造物はこうでないといけませんねぇ、鉄筋コンクリートではどうも・・・・。名古屋城天守閣や本丸御殿が残っていれば、とまたまた考えてしまいました。

 櫓に入ると、内部を見学できるだけでなく、この櫓から二の丸や天守閣(写真右下)を見渡せ、いつもの違った視点から城郭を観察することもできます。61年前にはこの間に本丸御殿があったわけですね。

本丸の模型。右下が東南隅櫓(赤で囲った名札) 二の丸から見た東南隅櫓(後方は表一の門)
東南隅櫓・3階の内部 東南隅櫓から見た天守閣


 古屋市では、名古屋城築城開始400年にあたる2010年に向けて本丸御殿の復元に取り組んでいます。さらに、北東櫓や本丸多聞櫓の復元のほか、二の丸にある県体育館を城外に移転して、跡地に向屋敷を復元するなど、名古屋城全体の整備に取り組んでいます。

 いま、日本各地で史実に基づいた「復元」が行われています。一時期、観光用にと天守閣もない城郭に天守閣が上げられたりするなど、多くの城郭ファン・歴史ファンのひんしゅくを買ったことがありました。幸いなことに、名古屋城は焼失前の写真や資料が多く残されていて、その点では復元も容易ではないかと思います。名古屋城が2010年に向けてどのように復元されていくのか、この目でしっかりと見届けて行きたいものです。楽しみが、またまた増えてしまいました。

 



#19 竹中家陣屋訪問記・2 05/05/04

 高3の長女と大垣の実家へ行ってきました。今日は帰省ラッシュで高速道路も混雑すると思われたので,久しぶりにJRで帰ることにしました。JR大垣で美濃赤坂線に乗り換え,終点の美濃赤坂駅で下車。終点といっても,途中に駅が一つあるだけで,国鉄時代は全国で一番短いローカル線として知られていました。大学4年間と社会人の2年間,毎日お世話になりました。美濃赤坂駅からお勝山の前を通って行くとすぐ実家です。駅に降りると新緑の匂いがして,ああ,赤坂へ帰ってきたんだなと実感します。名古屋の自宅の周辺は緑も少なく味気ないものです。それより,山に囲まれて育った私にとって,近くに山が見えないというのはちょっと不安というか落ち着かないものですね。

 両親と食事したあと,長女を駅まで送り,私ひとり,久しぶりの城郭巡りとなりました。論文とコンサートに頑張った自分自身に対するご褒美です(そういえば,去年はコンサート翌日に末森城へ行ったなぁ)。天気もよく心地よい風が吹き,城郭巡りにはもってこいの日でした。

 
 今日の目的地は,隣町の垂井町岩手の竹中家陣屋。昨年のお盆にも訪れているのですが,そのときは何の準備もしていなかったので,城門を見ただけでそそくさと帰ってきました。今日はそのときの反省から,もう準備万端。先日は大垣図書館で陣屋周辺の古地図を収集,今日は垂井町図書館で詳細な住宅地図を収集してきました。検索サイトの住宅地図では,都市部みたいな詳細な地図を入手できなかったからです。次に陣屋跡にある菁莪記念館を訪れ,陣屋の復元模型を観察してきました。

 古地図,現在の住宅地図,復原模型
,この3点があれば城郭散策は完璧です(地籍図があればもっといいんですが)。古地図・復原模型と住宅地図を照らし合わせ,主郭部分,土塁と堀,主要道,城門,家臣団の屋敷などが,現在のどの位置にあるかを住宅地図に書き込み,散策の順路を決定します。これがまた楽しいんですね。散策する前から,もう胸がわくわくします。模型を見ると,陣屋は伊吹山地からつづきく尾根を背景に,岩手川を天然の外堀とし,扇状地の緩やかな傾斜を雛壇状に利用した縄張りがなされているのがわかります。

 まず,城門から主郭部分を左周りに一周することにしました。竹中家陣屋というと,城門が余りにも有名ですが,それ以外の遺構はまったく知られていませんし,私も知りませんでした。城門を北に向かうと道路の東に住宅が立ち並んでいますが,その後ろをよく観察すると見事な石垣の土塁が残存しています。そしてその土塁の内側が竹中家の屋敷になります。したがって,土塁は外側からも内側からもよく観察できないということです。ちょっと残念ですね,せっかくの遺構が隠れてしまっていて。

 主郭の北側は住宅になっていて近づけないので,遠回りをして主郭の西側へ出ました。農作業をされている方々の前を「陣屋の写真を撮りにきたんですけど」などと言い訳をしながら通り過ぎ,あぜ道を通って主郭跡の藪(写真左)へと向いました。藪の中へ入ると,ご覧のように見事な堀と土塁(写真右)が残存しているのを発見しました。そして,土塁をよじ登ってみると,土塁の内側にも堀が見られました。つまり,二重の堀があるわけですね。土塁の上を東へ進もうかと思いましたが,深い竹林の上に倒れた竹がいく手をふさぎ,とてもじゃないですが前へ進める状態ではありませんでした。2〜3m進んだだけでもう断念,今までで一番の難所でした。

 藪から外へ出て堀沿いに南へ進むと岩手小学校の敷地に突き当たります。主郭部分の南側は岩手小学校・幼稚園になっていて,堀も土塁も残存していないのですが,校舎とグラウンドの間に段差が見られます。これが主郭南側の境界線となるわけです。

 今日の調査(?)によりますと,主郭南東の城門から主郭南西の小学校体育館まで,主郭の北側半分を取り囲むように,土塁と堀がほぼ完全な形で残存していることがわかりました。ほとんどが竹中家の敷地内にあるのですが,せっかくの遺構ですから,一部だけでも藪を切り開いて一般公開していただけないものかと思ってしまいました。竹中家陣屋のもうひとつの見どころとなるんではないでしょうか。

 主郭を一周した後は,大手門跡や家臣団の屋敷跡,そして外堀の役割を果たしていた岩手川を見学してきました。古地図と住宅図を照らし合わせると,同じ位置に同じ苗字の旧家が数軒,残っているのがわかります。旧当主といい旧家臣といい,維新以来同所に居住されているのですね。また,旧城下のあちらこちらに古い石垣がみられるのですが,これも城郭の遺構なのでしょうか。

 気がつくと,5時近く,2時間半くらい散策していました。いつものことながら,(城郭散策を始めた小学生の頃のように)時間も忘れて楽しむことができました。陣屋の旧城下は,多度の高木家陣屋に次いで2度目になりますが,陣屋の縄張りが確認できた上,多くの遺構を見学することができました。城郭散策というのは本当に楽しいものでね。また,どっか行ってこっと。

主郭部の北西隅 土塁と空堀




#18 桑名城訪問記・2 05/03/08

 今日は,月に一度の桑名のお客様訪問の日。最近の訪問日は,天気が悪かったり,到着時には日が傾いていたりで,なかなか桑名城散策の機会がありませんでした。今日は天気もよく,仕事終了後,久しぶりに桑名城を散策してきました。

 今日の散策コースは,前回の出発地点の七里の渡しから城郭を時計回りに歩くというものでした。桑名城は伊勢湾(築城以後,河口が埋め立てられて現在は揖斐川下流域)に面して築城された,代表的な「後堅固の城」。したがって,今日は揖斐川に沿って歩き始めることになりました。揖斐川沿いには伊勢湾台風後に防潮堤が築かれていて,浮世絵にみられるような,海に面して石垣がそびえるという光景はもうみられません。七里の渡し跡も最近復原された蟠龍櫓も,防潮堤の内側に隠れています。

 市民プール・グランドを過ぎた辺りから堤防を降り,住宅地に入って行きます。どの城郭にも共通して言えることなのですが,本丸や二の丸以外の大部分は市街地に埋もれてしまっていて,どこが外郭・総郭ラインだったのかまったく分かりません。しかし,江戸期の城下図と現在の住宅地図があればひと目で分かります。地名が残っているからです。検索サイトなどで入手できる地図などでは,町ごとに色分けがしてあるので,どこが城下と城外の境界線であったかが容易に判断できます。本丸西側を例にあげますと,旧城内は「吉の丸」,道路をはさんだ旧城外は,漁師町の「赤須賀」となっています。

 総郭ラインに当たる道路を南下すると,吉の丸の南側にある南外堀跡(写真左)に突き当たります。赤須賀漁港の西側,ポンプ場から西へ伸びる「側溝」です。江戸期城下図と現在の住宅地を重ね合わせた「城下重ね図」によりますと,江戸期は側溝の南側(写真でいうと左側)の住宅も堀だったようです。現在でもかなりの幅ですが,当時はこの倍あったということで,規模の大きさがわかります。側溝に下りて写真を撮っていると,不思議そうに(けげんそうに)こちらを見つめる男性がひとり。自分の怪しげな行動を弁明するということもありましたが,これも何かの縁と,昔の南外堀の様子などをお聞きすることにしました。

 この方,南外堀端で生まれ育ち,現在80歳になられるそうです。次のようなお話をお聞かせいただきました。
 「現在は側溝と化した南外堀も,年少時には底が見える清流だった。南側の住宅もまだなく川幅も倍近くあり,10歳の私が対岸まで泳いで渡るのは大変だった。外堀と揖斐川はまだつながっていて,家の前を船が行き来していた。生家が船大工で,自宅で建造していた船を,すぐ前の南外堀まで降ろしたのを覚えている。南外堀の上流に工場が建設されてから,水質が悪化してきた。平成に入ってから現在のように埋め立てられ,数年前には漁港と堀の間も仕切られてしまった。清流だった当時のことを息子に話しても信じてもらえないし,この変わりようは非常に悲しいものだ。」
 城郭遺跡(さらにいうなら環境)が破壊されていくということは,どこの地域にでもみられる話ですね。貴重な話,ありがとうございました。

 南外堀をさらに西へ歩いていきました。このあたりの地名は,外堀北側が「内堀」,南側が「外堀」となっています。「内堀」は旧重臣の屋敷跡,現在は立教小学校・貝塚公園・簡易裁判所などです。裁判所のあたりにも南外堀と同規模の堀があったのですが,現在はその痕跡すらありません。そう考えると,南外堀跡がまだ残されているということは「奇跡的」な事なのかもしれませんね。

 駐車場が閉まる時間も近づいてきたので,この辺で散策を中止,次回はまだ歩いていない総郭ラインの南東側を歩く予定です。内堀(写真右側)の東側を通りながら吉の丸駐車場へ向かいました。水をたたえた内堀を眺めながら,今日訪れた南外堀もこのようにな状況だったのだろうかと想像をめぐらしました。
南外堀跡(ポンプ場西) 二の丸南内堀跡




#17 西大平陣屋訪問記 05/01/30


 大岡越前守忠相。言わずと知れた江戸時代の町奉行,「遠山の金さん」と並ぶ時代劇のヒーローでもあります。私より上の世代ですと,TBS月曜夜8時の時代劇「大岡越前」の主人公・加藤剛や榊原伊織役の竹脇無我を,そして,マイナー調の,あの悲しげなテーマ音楽を連想されるのではないでしょうか。ところが,ドラマを通じて多くの人に名前が知られている割には,その経歴はあまり知られていないのではないでしょうか。

 伊勢の山田奉行や普請奉行として実績があった大岡忠相(1677-1751)は,紀州藩主徳川吉宗が八代将軍に就任して以降,41歳で江戸町奉行に抜擢,61歳で寺社奉行に昇進し,75歳で没しています。奉行としてより,官僚としての実績が多く,とりわけ町火消の設立,救貧対策,物価安定などに力を注いだと言われています。「喧嘩両成敗」や「三方一両損」などの「大岡政談」はどうも史実ではないようです。

 大岡家は,領地が関東に散在する6千石の旗本でしたが,吉宗の口添えもあり72歳にして1万石の大名に取り立てられました。加増された領地が三河に多かったことから,東海道筋の西大平に陣屋が設置されました。 西大平藩は以後7代続き,明治維新を迎えています。なお,定府であったので,忠相をはじめ歴代の藩主は一度も西大平に足を踏み入れることはなく,家来のほとんども江戸詰めでした。西大平の陣屋には郡代・郡奉行・代官2人・手代3人・郷足軽数人程度が常駐していただけとされています。

 豊橋の帰途,ちょっと足を延ばして,この西大平陣屋跡を訪れました。岡崎インターから国道1号線に降りてすぐ南にあります。東名高速と国道1号線にはさまれて旧東海道が通っています。周辺の喧騒を他所に,旧道沿いには,一里塚や寺院,旧家などがみられ昔ながらの落ち着いて街並みが随所にみられます。そのちょっと裏手,男川小学校の一角に陣屋跡があります。この跡地に,2002年3月,表門(写真左),裏門(写真右),塀などが復原されました(内部は神社と説明案内があるだけです)。現在は,「岡崎市の観光文化百選」の選ばれています。

 小さな城郭遺跡は,戦国期の砦と江戸期の陣屋などがあります。戦国期の砦は,一部の「マニアックな」城郭ファンの間で根強い人気があり,縄張り図を作成される方も少なくありません。それに対し,江戸期の陣屋は,跡地に碑だけが建っている場合も多く,どうも地味な存在でした。ところが,近年このような陣屋の復元がみられるようになりました。この西大平陣屋をはじめ,同じ岡崎市内の奥殿陣屋,北海道の白老陣屋,群馬県の小幡陣屋,兵庫県の三日月陣屋などなど。大きな城郭・城下町だけでなく,小さな城郭遺跡の復元整備な行われつつあるのはうれしいものです。そして,大きな城郭と,縄張りや歴史を比較対照するのも興味深いものです。機会があれば,陣屋も巡ってみたいものです。

表門 裏門




#16 吉田城訪問記 05/01/30

 「後堅固の城」。海や川を背に本丸が築かれ,その前面と側面に二の丸・三の丸などが配置された縄張りを言います。戦国城郭では,選地の基本とされていました。最近訪れた城郭では,高松城,桑名城(以上,海城),岡山城,犬山城,岡崎城などがあります。そして,今日訪れた吉田城も「後堅固の城」です。毎年1月には,豊橋へ初詣に行きます。今日はちょっと遅い初詣の帰途,この吉田城へ寄ってきました。昨年の1月に続き,1年ぶり3回目の訪問です(ふんなもんで,「吉田城=どさぶい」という印象が強い)。

 ところで,「豊橋にお城って,あったっけ?」などという声を,城郭にはあまり関心のない人たちから聞きます。確かに「豊橋城」なるものは存在しません。維新後,「江戸」が「東京」が改名されたのと同様,「吉田」は「豊橋」に改名されています。したがって,豊橋にあるのは「吉田城」なのです。

 吉田城は,1590年,家康の関東移封に伴い,池田輝政が15万2千石で入城,本格的な近世城郭の建設が開始されました。吉田城下町の基礎は,この時に築かれたとされています。しかし,関ヶ原の戦いの功績により,池田輝政は52万石で播磨に転封,そこに姫路城を築いています。ご存知の通り,現在は「世界遺産」になっています。

 以後,吉田には9家の譜代大名が移封されますが,いずれも3万〜8万石と小禄。財政的な余裕がなかったことから,城郭の完全な整備はされず,天守閣も上げられませんでした。そして,大河内松平家7万石のときに明治維新を迎えています。「広大な縄張りがなされた後,小禄の藩主家に交代したことにより,城郭が未完成のまま維新を迎える」という状況は,加納城と同様です。関ヶ原や大阪の陣などを境に,各城の重要性が変化したことにより,このような状況になったのでしょう。

 さて,前回は本丸・二の丸を中心に散策。今回は,三の丸外堀を一周することにしました。旧三の丸は,現在の豊城中学・豊橋市役所と豊橋公園の西半分の区域です。三の丸北西端の吉田神社から,左回りで散策を開始しました。
 
 西外堀は,現在の国道1号線の下にありました。戦前の地図や鳥瞰図(豊橋図書館蔵)にはその遺構が描かれていますが,国道建設時に破壊されたようです。同様に,市役所南の南外堀もみられません。それが,NHKを過ぎて豊橋公園の南に来ると,堀は埋め立てられて道路になっているのですが,見事な土塁がほぼ完全な状態で残されています(写真左)。そして,土塁は北に曲がり,旧三の丸の東側へと続いています。曲がりくねった土塁の東側には土塁に沿って,土塁を避けるようにテニスコートが設置してあります。コート設置時には,土塁を破壊せずに保存しようとしたことがよくわかり,うれしくなりました(ちなみに,大垣城では,テニスコート設置のため,戦後になっても残っていた最後の内堀が埋め立てられています)。

 吉田城の見どころのひとつは,豊川沿いの石垣群(写真右)です。「後堅固の城」の欠点は,背後の川といいますが,各城にはその欠点を補うさまざまな仕掛けがなされています。岡山城は対岸に後楽園が設けられてありました。吉田城は,これらの石垣群です。そして,もうひとつの見どころが内堀です。その幅・深さなどは,名古屋城の外堀を彷彿させるほどの規模でした。この二箇所は,お勧めです。

 日が傾いてきたので,三の丸を一周したところで散策終了。次回は,総郭ラインを回ってみる予定です。冬場は,樹木の邪魔もなくいい写真が撮れるのですが,とにかく風が強くて寒いこと。そそくさと車に乗り込み,次の目的地へと向かいました。

三の丸外堀土塁 復興隅櫓と石垣群