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#15 小牧山城訪問記 05/01/16

 「濃尾平野に浮かぶ孤島」と形容される小牧山(標高85m)。濃尾平野のまん中に位置し,四方から見渡すことができます。同じ濃尾平野の北西に浮かぶ,私のふるさとのお勝山(標高52m)と姿かたちが似ていて,どこか親しみの持てる山です。帰省するときや仕事でよく近くを通るのですが,いままで一度も訪れたことがありませんでした。今日は所用(#25)で近くを通ることから,ちょっと小牧山城を散策していくことにしました。

 小牧山城は,1567年,織田信長が美濃攻略の拠点として築城。しかし,そのわずか4年後には,稲葉山城(岐阜城)へ移転し,小牧山城は廃城。再び脚光を浴びるのは,徳川家康豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで,家康が本陣を置いた1584年のことです。

 小牧山とお勝山は,形状だけではなく,歴史もよく似ています。徳川家康は,これらの山に本陣を置いた戦い(小牧長久手,関ヶ原)で勝利し,その後の地位を不動のものとしています。この2つの山は,家康にとっては縁起のいい山というわけです。小牧山は,江戸期になると「家康公のゆかりの地」として尾張徳川家に保護され,一般の入山が禁止されています。お勝山は,関ヶ原の戦後,家康により「岡山」から「お勝山(オカチヤマ)」に変更され,山麓の安楽寺は将軍家の三つ葉葵の紋を許されています。これらの山はまるで兄弟のようです。差し詰め,小牧山が兄貴といったところでしょうか。

 さて,北側の駐車場に車を停めて,山の北側の搦手から散策を開始しました。小牧山の周囲には,家康の時代の土塁が良好な状態で残されています。明治期も尾張徳川家の所有となり,一般の入山が許可されなかったことから,土塁・空堀・曲輪跡などの遺跡の保存状態は極めて良好です。一般の入山が許可されたのは,尾張家19代徳川義親氏(写真左の銅像)が小牧町(当時)に管理を依託した昭和2年のことになります。

 次は,搦手から山頂まで登ることにしました。まだ(もう?)朝の10時だというのに,近所の方がたくさん散歩,というよりは登山にみえてました。見ると登るとでは大違いで,実際に登ってみるとかなりシンドイものです。山頂には,豊臣秀吉が聚楽第に築いた飛雲閣をモデルにした,歴史館(写真左)が建っています。昭和42年に,一個人が小牧市に寄付したことで知られています。歴史館からの眺めは絶景,といいたいところですが,周囲は見渡す限り住宅地,遠方の岐阜の山々は,天気が悪いため,雲に隠れてよく見えませんでした(それより,風が強くてめっちゃんこ寒かった)。しかし,濃尾平野が360度展望できる小牧山が,軍事要塞としていかに優れていたかがよくわかります。

 小牧市では,昭和62年より「史跡公園としての整備」「緑地の管理的保全」「景観の保全」を柱に,小牧山の本格的な発掘調査・整備を開始しました。帯曲輪にあった小牧中学校は城外へ移転し,その跡は帯曲輪の遺跡として保存されています。中腹は現在も発掘調査中でした。虎口・堀・曲輪など,いたるところには詳細でていねいな説明(写真右)がみられ,来訪者にはとても親切です。小牧市が,いかに小牧山城の城郭遺跡の整備に力を注いでいるかがよくわかりました。

 今日は,お勝山の「兄貴分」小牧山がますます好きになった1日でした。

歴史館と徳川義親銅像(左) 本丸東側の帯曲輪


  



#14 加納城訪問記 05/01/03

 名古屋への帰途,岐阜市の加納城へ行ってきました。去年の1月3日以来ちょうど一年ぶり,3度目の訪問です。家内や娘たちは,仕事やクラブ活動がもう始まるということで一足先に帰名,今日は私ひとり,心ゆくまで(?)城郭散策を堪能してきました。

 加納城は,関ヶ原の戦直後,徳川家康の命により築城され,家康の長女亀姫の婿,奥平信昌が10万石で入城しました。奥平家は3代で断絶,3家の交代の後,譜代の永井氏が3万2千石で入城,明治維新を迎えています。加納藩は美濃最大の藩でしたが,藩主家交代の度に石高が減少,美濃最大の藩の座を大垣藩に譲っています。また,加納城は,織田信長の岐阜城の陰に隠れ,一般にはどうも印象の薄い城郭のようです。

 昨年は,本丸を中心に散策しました。加納城には建造物はまったく残されていないのですが,本丸の土塁や石垣が完全な形で残存しています。本丸を取り囲む内堀は埋め立てられていますが,その跡は公園として保存されています(写真左)。初めてこの城を訪れたとき,これだけの城郭遺跡が市街地に残されているのに大変驚き,感動しました。加納城が開発から免れたのは,「岐阜駅の裏側に位置していること」と「陸軍司令部・アメリカ占領軍・自衛隊が駐屯していたこと」が大きな要因ではないかと思われます。
 
 さて,今日は外堀の機能を果たしていた長刀堀や荒田川,内郭を散策してきました。長刀堀は明治末年まで残されていたようですが,その後次第に埋め立てられ,現在では道路・住宅地となっています。本丸の北側に位置する二の丸・三の丸・厩曲輪は,加納小学校・岐阜聾学校・岐阜地方気象台の敷地になっています。旧城郭の縄張りとは無関係にそれらの施設の区画がなされているため,各曲輪を個別に観察することは困難となっていますが,所々に土塁と内堀の跡を思わせる土地の高低差が確認できました。

 そんな中,当時の姿をそのまま残している遺構が二箇所,見受けられました。加納小学校と加納幼稚園の敷地内です。普段は立ち入り禁止なのでしょうが,今日は近所の親子連れや子供たちがグランド内で遊んでみえたので,私もちょっと失礼してグランドの中を観察させていただきました。
 
 二の丸には,岐阜城天守閣から移築された御三階(天守の代用)がそびえていたといいますが,気象台の北側にはその櫓台や埋門などの石垣が残されています。これらは小学校のグランドからしか確認できないものです。幼稚園の敷地の真ん中には,三の丸北東櫓の櫓台跡が見られます(写真右)。ご覧のように,現在では遊具と一体化され,園の中の「お山」として有効利用されています。園設立時には,邪魔になったかと想像されますが,貴重な城郭遺跡がこのような形で残されているのは,大変うれしいものです。

 加納城跡を散策していて気がついたのですが,城門跡や堀跡などの表示がほとんどされていません。桑名城や大垣城など,旧城郭が市街地の中に埋もれてしまっているところでは,ていねいな案内図や表示が設置されています。せっかくこれだけの遺構が残されているのですから,城門跡や堀跡の表示の設置を是非,お願いしたいものです。また,市歴史博物館には,往時の復原模型が展示されているとのこと,こちらも機会があれば一度訪れてみたいものです。
 
本丸(左)と内堀跡 三の丸櫓台跡




#13 大垣城訪問記・2 05/01/02

 午前中,時間ができたので,ひとりぶらっと大垣城散策にでかけました。前回東総門(名古屋口)まで歩いたので,今日はそこから時計周りに総堀沿いに南総門(京口)まで進み,帰りは東外堀沿いに東総門まで戻りました(大垣城下図参照)。つまり,郭内の旧町人町を一周したわけです。

 大垣市域北部の自噴水を水源とする牛屋川は東総門で分流し,それぞれ城郭を取り囲むような形で流れながら南総門で再び合流します。城郭の西側を流れるのが水門川「西外堀」,東周りの流れが今日歩いた牛屋川「総堀」です。西外堀周辺は旧武家屋敷で,現在は官庁・神社・学校になっているのに対し,総堀周辺は旧町人町であるため,現在も旧美濃路沿いに古い商店街がみられたり住宅地になっています。簡単にいうと,東京の「山の手」と「下町」の,規模をぐっと小さくしたようなものですね。

 昭和初期までは,伊勢湾〜揖斐川〜水門川とういう経路でこの総堀も水運に利用されていて,新町に湊があったそうです。しかし,「繊維工場の地下水汲み上げ量の増加→自噴水の減少→川の水位の低下」というのが原因で,水運も次第に不可能になったとのことです。現在はご覧の通り,どこの街にでもあるような「側溝」に変貌しています(写真左)。今は乾季ですが,雨期になるともっと水かさが増えるのでしょうか。西外堀に比べると,ちょっと寂しいものです。

 「東外堀」になると,状況はさらに悲惨です。昭和初期に完全に埋め立てられてしまい,現在は旧「御郭内」の郭町(クルワマチ)と旧町人町の俵町・竹島町・本町の境界を流れる「側溝」として姿を留めているのみです(写真右)。住宅地や商店街の間の側溝を見て,これが城郭の外堀だったと想像できるのは,もう当時を知る大正期生まれの方たちだけでしょうね。残念です。

 さて,このように大垣市内を散策していると,ここ10数年の街の変貌ぶりに愕然とさせられます。駅前商店街がシャッター街となっているのはどこの地方都市にも見受けられる現象ですが,高度成長期の大垣の街の繁栄ぶりを知る私にとっては非常に寂しいものを感じます。幼いときは大垣の街へ連れて行ってもらうのが非常に楽しみでしたし,高校生の時はいつも駅前商店街を散策しながら帰ったものです。最近では「駅前銀座」や「タマコシ」もなくなってしまい,サラ地となっています。人通りも少なく,閑散とした商店街。これも時代の流れでしょうか。

総堀 旧東大手門跡の神社(左)と東外堀




#12 犬山城訪問記  04/10/13

 
 高校2年生になる我が家の長女が,今日から3日間の予定で長崎へ修学旅行に出かけます。朝8時に名古屋空港に集合ということなので,娘と友達2人を空港まで送っていくことになりました。途中渋滞に巻き込まれましたが,集合時間よりも早めに到着しました。その後はかねてからの計画通り,小牧(空港)より少し北に足を延ばし,犬山城まで行ってきました(二日酔いでえらかったので,やめとこかとも思いましたが)。今回が,昨年に続き3回目の訪問となります。

 犬山城は,尾張徳川家の付け家老,成瀬家の居城でした。成瀬家は,三万五千石もの領主でありながら,陪臣に甘んじ,明治維新まで大名になることがでませんでした。つまり藩として独立できなかったわけです。また,1885(明治28)年に県から犬山城を譲渡されて以降は,全国唯一の国宝天守閣(注)の個人所有者としても知られていました。歴史ファンにとっては,なにかと話題の多い城です。しかし,犬山城の所有権が,この4月に成瀬家から犬山市の財団「犬山城白帝文庫」に移管されています。この件については新聞紙上を賑わしていたので,ご存知の方も多いかと思います。

 さて,天守閣に登る前に,まず外郭を散策しました(城郭散策の定石)。犬山城では,総堀や外堀は全て埋め尽くされ市街地化されています。丘陵の東側を流れる郷背川が旧外堀と勘違いしやすいようですが,これは明治以降に開削された人工河川とのことです。外堀はもう少し東側,現在の名鉄犬山ホテルの付近にありました。近辺を歩くと地形に段差がみられ,これが堀跡ではないかと思われますが,ほとんどが広大なホテルの敷地になっているので,詳しく観察できず残念です。その代わり,天守閣から堀跡を望むと,それらしい地形が確認されました。

 城郭散策の楽しみは,「様々な地形にどのような縄張りがされているか」だといえます。特に平山城の場合は,丘陵地がどのように利用されているか,大変興味深いです。夏に訪れた丸亀城は,溶岩性の丸山を「螺旋階段」で二周すると本丸にたどり着くようになっていました。それに対し,犬山城は三方が断崖に囲まれ,南面だけが緩やかな坂になっています。丘陵の麓から,三の丸(松の丸),二の丸(桐の丸・杉の丸),本丸と各郭が雛壇状に形成されています。丸亀城に登るのは大変でしたが,犬山城はさほどでもありませんでした。さて,どちらが防御に適しているでしょうか? おわかりですね。

 城郭を一周したのち,国宝の天守閣に登りました。天守閣からの景色は丸亀城に劣らず,絶景です。前には濃尾平野,後ろには木曽川や対岸の岐阜県の山々が望めます。今日は天気もよく,天守閣から遠くも見渡せ,二日酔いや散策の疲れも吹き飛ぶようでした。その後,犬山市立図書館で犬山城の資料を収集,気がつくと時計は2時をまわっていました。途中で遅い昼食をとり,帰途につきました。

天守閣と木曽川 天守閣から東方を望む


注)国宝天守閣は,犬山城,松本城,彦根城,姫路城の4城がある。




#11 大垣城訪問記  04/10/3

 お彼岸には少し遅いですが,今日は家族で大垣の実家へお墓参り。数日前の天気予報では晴れとのことでしたが,午前中は雨に降られました。家内や子供が一足早く名古屋へ帰ったあと,午後からひとりで大垣城散策を予定していたのですが,雨も激しくなってきたので中止,散策はあきらめて大垣市立図書館へ行くことにしました。

 目的は西美濃地域の城郭資料です。小規模な城郭の縄張り図・城下図などは,市町村史や中央で出版されている城郭関係の書籍に詳しい記述がなく,教育委員会による城郭調査報告書や地元研究家の研究報告書を探すのが一番です。今日は数城の縄張り図をみつけることができました。これを片手にまたあちこちの城跡を訪れる予定です。図書館を出る頃には雨もあがっていたので,急きょ予定を変更して大垣城を散策することにしました。

 大垣城は,輪中地帯に浮かぶ水城とも考えられています。豊富な水に恵まれ,江戸期には二重の内堀,外堀,総堀という,四重の堀に囲まれた堅固な城郭でした。しかし,廃城後は不要の長物となったこれらの堀も次第に埋め立てられ,市街地化してしまいました。現在は外堀(水門川)と総堀(牛屋川)が残されているだけです。子供の頃は,「市街地に流れる川」程度の認識しかありませんでしたが,これが堀跡だと知ったのは二十歳を過ぎてからのことでした。

 この7月には,西総門跡(京口門跡)から八幡神社までの外堀沿いを歩いていますので,今日はその続きから東総門跡(名古屋口門跡)までを歩きました。つまり,総郭の東側と北側を右回りに半周したことになります。水郷地帯にある城郭の外堀ですので,幅も広く水量もあります。私が大垣に住んでいたころは見かけなかったのですが,最近は市内各地に城下図や城門跡の案内板が目に付きます。また,西総門付近から東総門付近は,遊歩道「四季の路」として整備されています(写真右)。

 「お城」は「方言」とともに地域のシンボルでもあります。全国各地で,天守閣・櫓・門の再建や堀の復元など,城郭遺跡が見直されつつあります。大垣には,天守閣・大手門の石垣と堀以外,城郭遺跡はほとんど残されていませんが,全国各地の城郭のように復原・整備がなされていくことを願っています。

外堀(後方は駅前通りに架かる新大橋) 外堀(手前は貴船広場)