杉崎を歩こう > 信濃
長野県 東筑摩郡 筑北村 坂井 杉崎
T、位置 1、坂井 坂井は、松本盆地と長野盆地の中間、筑北盆地の最東端に位置する。三方を1000m級の山に囲まれた山間の村で、麻績川(おみがわ)の上流である安坂川と永井川の流域に旧・安坂と旧・永井の集落があり、28の集落が点在している。平地の標高は600〜800m。西に谷が開けて平地が広がる。 経度 36.451 緯度 138.071 麻績川の下流に位置する麻績は、江戸期、南信と北信を結ぶ北国脇大還(北国街道の脇道)の宿場町が置かれていた、交通の要所である。三方を山に囲まれた坂井は、(峠越えを除き)この麻績を通じて他地域と繋がっていた。 そのことは現在も同様で、JR篠ノ井線、長野自動車道、県道403号線などが麻績を通過し、麻績と坂井は、JR篠ノ井線と県道12号線で結ばれている。 2、杉崎 杉崎は、安坂川が永井川との合流地点に位置している。杉崎からは、西方の四十八曲峠通じる県道55号線が通過している。 |
U、歴史 1、古代〜中世 高麗からの帰化人の定着地であり、開発の歴史は古く、独特の積石古墳が残っている。その他、7世紀頃までの古墳もみられる。大吉原という沼があったころから、「大吉原の郷」と称されていた。伊勢神宮の御領だったとされる。 天文元年(1532)より小笠原氏、同22年(1553)より武田信玄、天正10年(1582)年の武田家滅亡以降は小笠原氏に復帰している。 2、戦国末期〜江戸期 信濃国筑摩郡阿坂村字杉崎 天正18年(1590) 松本藩領(麻績組) 享保10年(1725) 幕府領(松本藩預かり) 『正保御書上』(1647)では「阿坂村」とあるが、『天保御帳』では「安坂村」と変更されている。 3、明治期以降 明治8年に、安坂(あざか)村は永井村と合併して坂井村となる。明治22年の町村制施行時も他村合併することなく、坂井村として存続する。 平成の大合併で、本城村と対等合併して筑北村となる。 明治8年(1875) 築摩郡坂井村杉崎 明治22年(1889) 東築摩郡坂井村杉崎 平成17年(2005) 東築摩郡筑北村坂井杉崎 注)杉崎に関する記述 山村の字の一つである杉崎に関する記述は少なく、『長野県町村誌南信編』(1936)に以下のような紹介が記されている。
村の掲示場があったことから、村の中心地であったとも考えられる。広さはおおよそ、1000m×400mと換算される。 |
V、訪問記 2009年10月18日に現地を訪問した時の報告です。 0、麻績へ 1、県道55号線 2、杉崎公民館 3、枝垂ひがん桜 4、大吉原神社 |
<参考文献> 長野県『長野県町村誌 南信篇』(1911)明治文献 (1973に復刻) 長野県総務部地方課 編(1965)『長野県市町村合併誌 下中邦彦編(1979)『日本歴史地名体系』20 平凡社 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編(1990)『角川地名大辞典』20 角川書店 |